ハコの厚みはここ次第!
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■ Profile ■
稲野 巧実
『ハコの開き』の管理人。
様々なゲームに浮気しつつ、アストルティアに度々出没する駄目社会人。ルアム【XI881-625】で冒険中。エンジョイ プクリポ 愛Deライフ! 貴方の旅に光あれ!
行動してから後悔しろが信条の体育会系思考。珈琲とチョコと芋けんぴがあれば生きて行ける!
様々なゲームに浮気しつつ、アストルティアに度々出没する駄目社会人。ルアム【XI881-625】で冒険中。エンジョイ プクリポ 愛Deライフ! 貴方の旅に光あれ!
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ぽっと。暖かい熱が灯火のように浮かんだ。
ぐっと握られて染み込んでくる体温が、闇を退けていく。許嫁殿が己の胸に押し当てた僕の手の平には、許嫁殿の心臓の鼓動と燃えるような熱が伝わっていた。止め処もなく流れて滴る汗を、許嫁殿が混乱避けの刺繍をしたハンカチで拭ってくれる。
「秘術の守護者は秘術が二つの術で構成されていると言いました。魔王軍の総攻撃が目前に迫って、時間がないのは理解しています。それでも、賢者様によって秘術の全てを明らかにするべきです」
その凛々しいお顔に、僕は自然と膝を折り頭を垂れた。
父も母も尊敬に値する人物だったが、畏まるのは王子としての儀礼でしかない。心の底から湧き上がる暖かい水のように、頭上に降り注ぐ命を育む光のように尊く思った存在に、僕はこの時初めて出会った気がする。
それでも、己の心臓のように、欠けたら生きていけぬものがある。
「最後まで私の名を呼ばなかった貴方は、婚約者としてとっくに失格よ」
そう許嫁殿に言われて、今更ヴィスタリア姫の名前をお呼びした事がない事実に気がつく。どうして、彼女の名前を呼ばなかったのだろう? 目が見開かれるのを感じながら、彼女を傷つけた後ろめたさと、愛想を尽かされるのも致し方ないと呆れる僕がいる。
しかし、嫌な気持ちは一切ない。それは、彼女のすっきりとした表情にあるのだろう。
人形めいた品の良い笑みは匂い立つような生気に今にも弾けそうで、悪戯好きな猫を彷彿とさせる爛々と輝く瞳が僕を写している。僕は王族に相応しいお嬢さんよりも、魅力的で可愛らしく見える。腰に手を当て僕を睨め付けるも、怒りはなく戯れ合う気安い感じがする。
「婚約破棄を嬉しげに受け止めて、本当に失礼なお人! 貴方の好きな女の為に、純白のヴェールを作っておいて待っておりますわ!」
頬をふっくりと膨らませた愛らしい許嫁殿の仕草に、僕は声を上げて笑った。
許嫁殿。貴女とは別の出会いをしたかった。カミルの命を救おうとあの恐慌を収める手段として利用してしまったのに、貴女は僕を愛してくださる。貴女と過ごした日々は絹のように滑らかで心地よく、平和な未来が今ここにあるように錯覚させてくれた。
許嫁殿が僕を心から愛してくれるからこそ、僕が最も幸せになる未来の為に道を示してくれる。
あぁ。許嫁殿。貴女に何も返せない僕が憎い。
ただ、レースに包まれた細い手を取り、その繊細な白と肌が織りなすモザイクの上に唇を恭しく落とす。あまりにも自然にした自分が自分でないようで、今更ながらに遅い恋を自覚する。
「ヴィスタリア。僕が導く平和を、貴女に捧げましょう」
瞳を閉じてハンカチを握り締め、一つ深呼吸する間に何かを強く願ったようだった。覗いた冬空の瞳がハンカチの皺を伸ばして丁寧に畳むと、それを僕に持たせる。重ねられた手が、僕とカミルの無事を願って小刻みに震えていた。
椅子が倒れた物音に驚いたのか、隣室に待機していた侍女や護衛が扉を開けて見ていた。許嫁殿の指が指し示した先は、僕が欲して止まないカミルが生きて世界が救われる未来に輝いて見えた。
「お征きなさい! 勇者アルヴァン!」
はい! 僕は感じたことのない強い輝きに突き動かされ、部屋を飛び出していく。
カミル。一刻も早く僕の盟友を探し出さなくてはならない。下手をすれば、秘術を片手に魔王討伐へ向かってしまうかもしれない。
足が自然と早まり、いつの間にか全力疾走の速度に達する。あの華奢な肩を探して、大きく振った手が空気を掴もうと指が伸びる。荒くなった息が、ぐらつく視界が、体を構築する細胞全部が一瞬でも早く盟友の元へ行こうとする。
神様。一生のお願いだ。どうか、間に合ってくれ…!
今この瞬間に、カミル、君と二人で話がしたいんだ!
あぁー!!!!!ヴィスタリア様イケメンやわーーー!嫁にされてぇーーーーーー!!!!!
そう思った瞬間、闇が風に吹き払われるように書き消え、オーガ族の大陸独特の赤い地層が剥き出しになった荒涼とした大地が飛び込んできた。乾燥して白くすら見える薄い青空と、真っ赤な大地の間を渡る風が髪を引っ掴み体を押し退ける。
まるで大規模な落石でもあったかのような、歓声にはっと目を向いた。
世界中から武勇を響かせる猛者が集まる武術大会。オルセコの中心に作られた闘技場を、囲むように作られた王城や居住区から溢れ落ちそうなくらい多くの人々が戦いを見つめていた。
その門戸は他種族にも開かれ、招待客として各種族の戦士達が招かれていた。一瞬で相手の武器を両断する圧倒的剣技を見せるエルフの剣豪。如何なる豪剣も寄せ付けぬ盾一枚で、倍以上の偉丈夫を薙ぎ倒したドワーフの騎士。まるで流水と戯れるように攻撃を往なし、いつの間にか地に伏せさせる妖艶なウェディの武道家。姿を見せず一瞬で相手を昏倒させる素早さと技量を持つ、プクリポの盗賊。
そんな古今東西の猛者達の中で、カミルは一際暗く澱んでいた。
世界でも名を馳せる戦士達は、己の力を誇りにしていたし、相手の力に尊敬の念を抱いていた。エルフの剣豪は己の武器を念入りに手入れし曇りなき刀身でもって相手の礼儀とし、ドワーフの騎士は無傷の敗北という侮辱を与えんが為に誰もが納得するような苛烈な戦いを繰り広げた。互いの全力を尽くす事が、相手への敬意となる世界。
その世界において、カミルの力は抜きん出ていた。華麗な剣捌きも、的確な判断も、全ての試合において相手を圧倒し勝利してみせた。彼女は初戦から優勝候補として注目されていた。
だから、彼女の行動が目につくのだ。
カミルにとってその素晴らしい剣技は、ただの方法でしかなかった。相手に向き合っても感情の一つも浮かべず、相手の技量に翻弄されても悔しさも嫉妬も浮かばず硝子のような冷静な瞳で見るのみ。勝利の際に一礼はするも、相手を讃えることもなく立ち去る姿にオルセコの闘士達は相当鬱憤を募らせていた。終盤では入場と共に野次が飛ぶ程だった。
最初は来るべき大魔王の斥候かと思った。
大魔王の手の者かどうか確信したのは、ファルエンデ王国の王子が殺された瞬間だった。
どんなにファルエンデの王子が気が短く殺気を放ってしまったとしても、カミルには相手を昏倒させるなりして戦闘不能にさせる力量の差を持っていた。それなのになぜ、殺害に至ってしまったのか。
彼女はうっかり、王子を殺してしまったのだ。
それを、その場にいる誰もが理解した。相手への敬意もなく、戦いへの意欲も低く、そして己を律する意志の弱さ。闘士達が最低な剣士に対して、唾を吐きつけ、恐ろしい呪いの言葉で空を震わせ、足踏みは地面を揺すり上げた。指が槍衾のようにカミルに突きつけられ、息子の仇を討とうとしたファルエンデ国王に向かって『殺せ! 殺せ!』と声が上がる。
僕は震え上がった。なんと恐ろしい光景なのだろう、と。
カミルを助けなければ。そう立ち上がった時、周囲を囲む人々はグランゼドーラの者に代わっていた。『カミル殿が秘術を使えば魔王は滅ぶであろう』と喜ばしく笑う父上。『魔王との戦いに命を賭すのも厭わぬカミルは、世界の誇りであろう』と誇らしく微笑む母上。盟友カミル万歳と、諸手を挙げて褒め称える国民達が見渡す限りに見える。
『やめろ! このままではカミルは死んでしまうのかもしれないんだ!』
僕がどんなに叫んでも、歓声が滝のように降り注いで誰にも届かない。笑みを浮かべる人々の波の中に、カミルの姿が見えた。感謝の言葉を受け、握手を求められ、群衆にもみくちゃにされたカミルは、僕を見つけるとふわりと可憐な笑みを見せた。
胸の上に手を置きゆったりと頭を下げると、白いフードの中から白金の細い髪が溢れる。
『アルヴァン。盟友として為すべき使命を、果たしにいってまいります』
『カミル! 行かないでくれ!』
どんなに群衆を押し退け掻き分けても、道を開けられ進んでいくカミルの背中がどんどん遠ざかっていく。盟友は勇者の盾。魔王との戦いの為に死ぬのは名誉な事であるから、誰もカミルの死を悼まない。魔王に勝つ為なら、カミルの死は望むんべき事で、未来に美談として語り継がれていく。そんな! そんなこと、あってはならないはずなのに、目の前の想像はあまりにも現実味を帯びていた。
これでは、どちらが魔の者かわからないではないか!
まぁねー。オルセコでカミルが綺麗で有能でいい感情持ちました。むしろ自覚してないけれど一目惚れですなんてありきたりなことはしない。基本は最低からスタートの稲野の恋愛です。
きっぱりと告げた先で、許嫁殿が花が綻ぶように笑った。そして肩を震わせ、口元を隠し、弾けるように愉快な声を上げた。喜んでいるとは思えない反応に、口を開けて見守っているうちに許嫁殿は滲んだ涙を拭って落ち着かれる。
「貴方とカミルは不死の魔王を討伐するまで、愛だの恋だの結婚だなんて気が回らないでしょう。ただ、婚約者がいるだけで煩わしい話題から逃れられるなら、私は良い緩衝材になったのでしょうね。わたくしの役目は勇者のお役に立ち、グランゼドーラの勝利に貢献する事。十分に役目を果たしたと思っております」
そんな事は…! 否定の言葉を迸ろうとした口に、ほっそりとした指が当てられる。
「もう、わたくしの心は決まっております」
まるで不死の魔王の如き威圧に、ひゅっと喉に言葉が詰まった。口に当てた指に力を込められて椅子に腰を下ろした僕を見ると、許嫁殿は母上に似た威厳ある声で告げる。
「貴方にカミルを救ってもらいたいのです」
どういう事ですか? 掠れて声にならない吐息が、口から溢れた。
許嫁殿は兄上の死の真相を、父親であるファルエンデ国王から聞かされているだろう。許嫁殿から兄妹仲が良好だった事を聞けば、兄を殺した張本人を恨みこそすれ、救ってほしいなどと願えるものだろうか?
いや、許嫁殿はできる。
彼女は正しく、一国の主に相応しい気量を持つ女性だ。
「秘術が生み出す『邪魂の鎖』は術者の魂から生成される。そう、秘術の守護者は申しました。全ての力を封じる秘術は、魂を対価とする禁術やもしれません」
温い困惑に浸った胸に、ひやりと冷たいものが流れ込む。
なぜ、気が付かなかったのだろう?
三つ目の神話で世界を照らすための力を、己の魂でもって生み出した女王がいた。九つ目の神話で己が大国を守る為に、魔神に同盟国を差し出した王がいた。あの、僕達を散々苦しめた不死の力すら封じる行為に、どれ程の対価が必要であるかなど、少し考えればすぐに思い至れた筈だ。
いつもの無表情に僕だけが分かる喜びを浮かべて、カミルは秘術を見つけたと言った。この秘術を使えば、不死の魔王を倒せるのだと感慨深く言った。カミルの言葉に僕も父も母も、グランゼドーラの民全てが喜んだ。もうすぐ戦いが終わる。勇者が勝つと、夜も明けるというのに宴は終わる様子がない。
その勝利を手にする為に、カミルが、死ぬ?
嘘だ。そんな事、カミルは一言も言ってない。
カミルは僕の盟友だ。どんな絶望の戦場でも僕と共に乗り込み切り開き、どんな強敵も力を合わせれば負ける事なんてなかった。言葉を交わさずとも、たった一目視線を交わすだけで互いの全てが伝わった。あのまっすぐな瞳に、嘘はかけらも感じなかった。
「カミルは敢えて、貴方に秘術の全てを伝えなかった。それは、不完全な状態であっても不死の魔王を打破する効力があるからです」
許嫁殿は苦しそうに目を眇めた。
「不死の魔王を討つ為…というのは建前。カミルはアルヴァン様の為に、己の魂を捧げるつもりなのです」
カミル…!
僕は勢いよく立ち上がり、椅子が大きな音を立てて倒れた。心臓が握りつぶされそうな程に痛み、胸の中の空気は空っぽで頭が落ちそうな眩暈が世界をぐるぐると回している。不死の魔王を倒さなくては。グランゼドーラを、世界を、守らなくては。カミルが死ぬだなんて嫌だ! 感情が脳を掻き回すような激痛となって、全ての色が混ざった漆黒の世界に反響する。
この感覚を覚えている。
そうだ、カミルと初めて出会ったオルセコの地。
ほーんと、カミルなら絶対にそうするって辺りが、あの石頭っぷりで確信しちゃう。
たぶん、カミルはこの戦いで死にたかったんだと思う。心の底からアルヴァンの伴侶にヴィスタリアが相応しいって思うし祝福するけど、フェリナあたりに本当にそれでよかったの?って突っ込まれる程度に無理した余生を送るかもしれない。それならば、いっそ死んで未来なんか見ないで済むならそれで良いし、彼女の生命に頓着しない気質がアルヴァンの代わりに死ねると加わって率先と秘術を使う事を決めさせるんですよ。絶対に他の選択を考えないの、石頭だなって思う。
空になったカップにお茶を注いだ許嫁殿は、手の平を温めるようにカップを掬い上げた。ゆらゆらと揺れる紅茶の奥底を覗き込んでいた許嫁殿の冬の空の瞳が、紅葉の睫毛を押し退け向けられる。許嫁殿は不思議なお方だ。無邪気に振る舞ったと思えば、全てを見透かしたような目で僕を見る。
勿論です。そう答えながら、記憶が過去に向く。
許嫁殿との出会いは互いの婚約が決まった時、グランゼドーラ城で出会ったのが初顔合わせだろう。ファルエンデ王国はグランゼドーラから遠かったからこそ、初めて出会った許嫁殿は政略結婚である事を理解して乾いた目で僕を見ていた。
「グランゼドーラが同盟を強化すべき国として、ファルエンデの優先度は低いのです。ファルエンデはグランゼドーラから遠く、現在直面している不死の魔王との戦いで疲弊した軍需を補う為に差し出せるものはありません」
王族にとって他者が決めた婚約はよくあること。父も母も物心付いた頃に親が決めた許嫁同士だった。互いの子が婚約し、互いの血が混じって結束を深める行為を、レンダーシアに存在する王国や有力者達は何千年は言い過ぎではない年月繰り返していた。
政略結婚とはいえ、グランゼドーラのジュテ王とエメリヤ妃といえば他国も聞き及ぶおしどり夫婦。愛を育むのは、手を繋ぎ心を重ね共に足並みを揃えるステップにあると父は笑う。
許嫁殿に礼を失してはいけないよ。アルヴァン。
朗らかに笑みを浮かべながらも、有無を言わせぬ王の声で父は言う。
戦線が悪化しグランゼドーラになようやく戻れた時も、『身綺麗にしたら、許嫁殿にまず会いに行きなさい』と叱責されたくらい女性に気を配るよう言われている。もし、許嫁殿に礼儀を欠き、失態を犯したならばライデインが頭上に落ちてきたに違いない。
時間が許す限り許嫁殿と共に過ごした。お茶の時間を設け、花を愛でる為に中庭を歩き、兵士の訓練を見に来ては許嫁殿手ずから守りの刺繍を施した肌着やハンカチを差し出していた。
決して仲は悪くない。このまま婚約しても、良き夫婦であれると思っている。
喉が渇いていたのだろう。暖かい紅茶の香りが喉を焼くように通り過ぎ、胃を焼き尽くすような熱気が鼻に抜けていく。檸檬の酸味が痛む喉に追い打ちをかける。
許嫁殿の瞳が真実を見据えたように、僕を捕らえた。
「貴方は兄上を殺したカミルの命を救う為に、ファルエンデ国王にとって魅力的な勇者との婚姻を対価に差し出したのですね?」
「違います!」
僕は腰を浮かせ言い放った否定が、許嫁殿の前髪を浮かせた。
『不死の力を封じる禁忌の秘術を、ついに手に入れました』そう僕の隣で父上と母上に報告するカミルの誇らしげな顔は、この果てなき戦争についに終わりが見えた希望と安堵に輝いてすらいた。秘術の入手に尽力した許嫁殿の話に及べば、父上も母上もこの国に嫁ぐ嫁の勇ましい逸話に驚きを隠さなかった。
智将と名高いジャミラスを出し抜いた経緯を聴き終えた瞬間、父は『まことに天晴れなり!』と膝を叩いて賞賛した。淑女たる許嫁殿の大胆な行動は、勇猛果敢な父の琴線をかき鳴らしたようだ。
眉尻を下げ、隣に座った母上に上半身を捻って笑いかける。
『二人が結婚すれば国は安泰。のぅ、エメリヤ?』
えぇ。母上が嬉しげに頷いた。
『勇者に相応しい、献身と勇気ある娘は他におりますまい。魔王討伐が成ったならば、立派な婚礼をあげるがよいぞ、アルヴァン』
はい。しっかりと頷いた僕を睨めつけるのは、妹のフェリナだ。
許嫁殿の歳は僕よりもフェリナに近いだろう。戦争に貢献できないとされた許嫁殿に、フェリナは何かと張り合っていたように見えた。許嫁殿が来てから僕とカミル渡した刺繍守りは、兄の贔屓目を抜いても素晴らしいものだ。いつも縮こまり隠れるような妹が鮮烈な感情を向けてくる姿に、刺激となった許嫁殿には一生頭が上がらないだろうと思ってしまう。
それに。きりっとした盟友を横顔に、初めて見た笑顔が重なる。
僕ですら見た事がない、零れるような笑顔。初めて耳にする笑い声。普段から完璧な盟友であれと誰よりも己を強く律しているカミルが、誰よりも僕と共に過ごしているカミルが、年相応の娘のように笑う一面を引き出した許嫁殿に嫉妬さえしてしまった。
兄を殺した相手を笑顔に変える許嫁殿の底知れなさに、僕のお嫁さんはとんでもない人だと思うばかりだ。勇者の伴侶となりうる女性とはどんな人物だろうと思っていたが、許嫁殿は僕の想像を軽々と超えて傍にいた。
「許嫁殿! 貴女は僕の妻には勿体無いくらいの、素晴らしい女性です!」
公式のヴィスタリア姫は幼い感じなんでアルヴァンさんも『妹が増えた』程度しか感じてないのが、仕方がないとはいえ割とキレてる。わかってる。カミルが好きなのは鈍感で資格なしだし、王族だから政略結婚にドライな感じしてるし、それでもヴィスタリア姫に丁寧に接しているのはわかってるんだ。
それでもさー。
なので、ヴィスタリア姫をきちっとアルヴァンさんに伴侶として認識してほしかったなって稲野の欲が爆発してる。
勝利への光が見えた宴が、潮騒と混ざり合って聞こえてくる。
グランゼドーラ城で最も奥まった場所にある私室は、この国で国王よりも大事な人物に当てられる。かつては妹のフェリナの部屋だったそこは、現在、僕の許嫁であるヴィスタリア姫が使用している。彼女が好む白と桃色を中心に整えたカーテンやリネンはドレスに仕立てるような一級品、花嫁道具である裁縫箱は外見は質素な白木のチェストだが、扉を開ければ螺鈿細工で飾り立てた宝石箱だ。この戦時下において、豪華過ぎず、ファルエンデ王国として恥じないよう心配られた品々。
それに囲まれた許嫁殿は、とても美しいお方だ。
肌は透き通った陶磁のように白く滑らかで、小ぶりな唇は健康的な薔薇の色。榛色の髪は丹念に手入れされて瑞々しく潤っており、巻いている髪を覆う艶は夕焼けを溶かし込んだような美しさがある。針を握る手は摘んだだけで折れてしまいそうなくらい細い。冬の空を彷彿とさせる青みがかった灰色の瞳が、真っ直ぐ僕を見据えていた。
「明朝には出立されるというのは、本当ですの?」
先日、不死の魔王から受けた傷を心配しているのか、許嫁殿の真剣な瞳が腹部に注がれる。そんな彼女の不安を拭うように、僕は殊更元気に笑ってみせた。
「賢者セレディーネ様に治療していただき、傷は跡すら残っていませんよ。回復呪文の副作用である疲労も、休息をしっかりしたお陰で残っていません」
許嫁殿が溢した安堵の息が胸を満たしていくのを感じながら、僕は笑みを柔らかくする。
「不死の力を封じる秘術を、カミルと許嫁殿が力を合わせ探し出してくれた。今、天は魔王と討伐すべしと全ての気運が高まっているのです」
カミルに討伐されたジャミラスが復活するまでの間は、魔王軍は勇者が秘術を手にした事を知らずにいる。それを証明するように不死の魔王はグランゼドーラに向けて総攻撃を仕掛けるようだと賢者シュトルケ殿から報告があり、手薄になるだろう魔王城に乗り込み魔王を討つ絶好の機会ともいえる。
勇者と盟友が魔王城に乗り込む事でグランゼドーラの守りは薄くなるが、各地の防衛拠点からできる限りの人員を集結させる事で耐え凌ぐつもりだ。不死の魔王が倒されれば、不死の魔王の力で蘇生されている魔軍十二将も瓦解するに違いない。
「許嫁殿。平和な時まで今暫くご辛抱ください」
不死の魔王を倒し、世界に平和をもたらすまで後少し。勇者の本能なのか心が浮き立ち、声が弾むのが抑えられなかった。
人々の恐怖に硬った表情をほぐしてきた笑顔だが、許嫁殿の顔は硬いままだ。
なんだろう。
言い様のない不安が、彼女の開いた真っ暗な口腔から不気味な手となって這い出してくる。
「アルヴァン様はカミルから秘術の事をどこまで聞きましたか?」
「不死の力を含め、ありとあらゆる力を封じる事ができると、聞き及んでいます」
人払いがされた部屋で、『そう』とため息のように声が漏れた。小さい花弁の唇が閉ざされて、純白のロングスカートのように広がった沈黙は、いつもなら聞こえる筈の波の声すら退けたようだ。互いの呼吸音、僕の心臓の音、そして彼女がそっと置いて擦れた陶器の茶器。
アルヴァン様。許嫁殿が僕の名を呼んだ。
「わたくしと初めて会った時の事を、覚えておいでですか?」
勇者アルヴァン様視点早すぎると思うんだが、ヴィスタリア様もうやっちゃったから彼しかいないんだー。せつねー。
ちなみに2テイク目。最初は婚約破棄をぶつけるヴィスタリア姫から始まってキレキレだったが、その後に秘術の話題に流れるの悪過ぎて前後させました。
拍手に感謝!ぱちぱちっとありがとうございます!